ボラカイ島がまだ手付かずの島だった頃、イロイロで
今、フィリピンのボラカイ島が大変なことになっている。米誌「トラベル+レジャー」は昨年、ボラカイ島を「世界で最も優れた島」として、一昨年のランキング4位からトップに浮上させた。
私がリュックを背負ってボラカイに行ったときは、白砂のビーチにニッパ椰子の葉で葺いたバンガローが数件建っているだけの、正しくパラダイスだった。今美しいビーチはリゾートホテルに占領され、とても同じ島とは思えない。

あの頃ボラカイに行くにはマニラからパナイ島のイロイロに飛び、そこからジープニーに乗って数時間かけてカティクランまで行かなければならなかった。今はカティクランに飛行場ができている。そこからボラカイは船ですぐだ。
私にとって事件が起きたのは、イロイロの町をぶらぶらと歩き回っているときだった。突然、中学生位の男の子が近寄ってきた。そして言った。「おじいちゃんは、スパイだと言われて、あの橋の上で日本兵に首を切られて死んだ。何も悪いことをしていないのに」
ショックだった。涙ぐんだ私に、男の子はあわてて、「ごめん、ごめん、あなたが悪いんじゃないのに」と言って、慰めてくれた。あの頃滅多に見かけない日本人を見て、長年の家族全員の悲しみをぶちまけたかったのだろう。
太平洋戦争で日本と米国の戦場になったフィリピンでは、国民の16人に1人に当たる110万人が犠牲になった。そしてその後ろには、亡くなった家族を偲んで嘆き悲しむ膨大な数のフィリピンの人々がいるのだ。

フィリピンに何度も行ったが、後にも先にも、イロイロの少年以外に戦争の話を口にした人はいなかった。日本に好感情を抱くフィリピンの国民は80%近くに上る。このことを、とても大切にしたい。
終戦記念日に、犠牲になられた他国の人々、特にアジアの人々に対して思いやりのある言葉を、国のトップが一言も発しなかったのは大変残念だ。御再考願うためにも、来年もまだトップでいていただきたい。
いけない、また話がそれてしまった。ディカプリオの『ビーチ』を凌駕していた、あの頃のボラカイ島のすばらしさは又今度お話しまーす。手付かずのビーチって、まだあるのかなあ。

私がリュックを背負ってボラカイに行ったときは、白砂のビーチにニッパ椰子の葉で葺いたバンガローが数件建っているだけの、正しくパラダイスだった。今美しいビーチはリゾートホテルに占領され、とても同じ島とは思えない。

あの頃ボラカイに行くにはマニラからパナイ島のイロイロに飛び、そこからジープニーに乗って数時間かけてカティクランまで行かなければならなかった。今はカティクランに飛行場ができている。そこからボラカイは船ですぐだ。
私にとって事件が起きたのは、イロイロの町をぶらぶらと歩き回っているときだった。突然、中学生位の男の子が近寄ってきた。そして言った。「おじいちゃんは、スパイだと言われて、あの橋の上で日本兵に首を切られて死んだ。何も悪いことをしていないのに」
ショックだった。涙ぐんだ私に、男の子はあわてて、「ごめん、ごめん、あなたが悪いんじゃないのに」と言って、慰めてくれた。あの頃滅多に見かけない日本人を見て、長年の家族全員の悲しみをぶちまけたかったのだろう。
太平洋戦争で日本と米国の戦場になったフィリピンでは、国民の16人に1人に当たる110万人が犠牲になった。そしてその後ろには、亡くなった家族を偲んで嘆き悲しむ膨大な数のフィリピンの人々がいるのだ。

フィリピンに何度も行ったが、後にも先にも、イロイロの少年以外に戦争の話を口にした人はいなかった。日本に好感情を抱くフィリピンの国民は80%近くに上る。このことを、とても大切にしたい。
終戦記念日に、犠牲になられた他国の人々、特にアジアの人々に対して思いやりのある言葉を、国のトップが一言も発しなかったのは大変残念だ。御再考願うためにも、来年もまだトップでいていただきたい。
いけない、また話がそれてしまった。ディカプリオの『ビーチ』を凌駕していた、あの頃のボラカイ島のすばらしさは又今度お話しまーす。手付かずのビーチって、まだあるのかなあ。
