和泉式部の熱愛、知ると元気の出る道真公のパワー、歴史は深い
このところ故あって歴史を紐解くことが多い。読んでいて、ギョッとすることもシバシバ。えー、この方そんな人だったんだ、ヒェー知らなかったなんて。(謹厳な歴史学者の方から怒られそうな言葉遣いでスミマセン)
たった今ジェジェって叫んだ箇所…… 『和泉式部は橘道貞と結婚後、為尊(ためたか)親王、敦道(あつみち)親王と熱愛し、のち藤原保昌と結婚。恋愛歌が多い』
うわぁ、親王二人と熱愛なんて、源氏物語はまったく作り物ではなかったのねえ。ちなみに和泉式部は978年に生まれ、紫式部は973年の生まれ。和泉式部は源氏物語の中で、朧月夜のモデルだったとも。今度突き止めよう。
その頃、藤原家の陰謀術策で左遷されたり流罪の憂き目に合う要人の事例がチラホラ。その一人、菅原道真は和泉式部の生まれる75年前、903年に左遷先の大宰府で失意の底に沈んだまま亡くなっている。
道真の死後、左遷に関与した者たちが次々と怪死した。張本人の藤原時平は、耳から蛇が出ると言いながら狂死、藤原菅根が雷に打たれて即死、源光が底なし沼に馬ごと沈死と、枚挙に暇がない。
おまけに醍醐天皇の皇子で皇太子でもある保明(やすあきら)親王が21歳の若さで急死した後、醍醐天皇の皇太子となった慶頼王(よしよりおう・保明親王の子)が5歳で死亡した。それだけではない。
930年、清涼殿で道真の件で朝議中雷が落ちて、大納言藤原清貫が死亡、その他多数の朝廷要人が死傷した。目撃した醍醐天皇は体調不良になり、三ヵ月後にみまかられた。朝廷は恐れおののき、道真の罪を赦し息子たちを流罪先から京都に戻した。
そして雷神と結び付けられた道真の怨霊を、火雷天神が祭られていた京都の北野に北野天満宮を建立して鎮めようとした。こうして道真を「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになった。うーん、なるほど。
職場で左遷されている方、天神様が守ってくださると信じて、泣き寝入りせず戦いませんか。

西表島 ピナイサーラ川
たった今ジェジェって叫んだ箇所…… 『和泉式部は橘道貞と結婚後、為尊(ためたか)親王、敦道(あつみち)親王と熱愛し、のち藤原保昌と結婚。恋愛歌が多い』
うわぁ、親王二人と熱愛なんて、源氏物語はまったく作り物ではなかったのねえ。ちなみに和泉式部は978年に生まれ、紫式部は973年の生まれ。和泉式部は源氏物語の中で、朧月夜のモデルだったとも。今度突き止めよう。
その頃、藤原家の陰謀術策で左遷されたり流罪の憂き目に合う要人の事例がチラホラ。その一人、菅原道真は和泉式部の生まれる75年前、903年に左遷先の大宰府で失意の底に沈んだまま亡くなっている。
道真の死後、左遷に関与した者たちが次々と怪死した。張本人の藤原時平は、耳から蛇が出ると言いながら狂死、藤原菅根が雷に打たれて即死、源光が底なし沼に馬ごと沈死と、枚挙に暇がない。
おまけに醍醐天皇の皇子で皇太子でもある保明(やすあきら)親王が21歳の若さで急死した後、醍醐天皇の皇太子となった慶頼王(よしよりおう・保明親王の子)が5歳で死亡した。それだけではない。
930年、清涼殿で道真の件で朝議中雷が落ちて、大納言藤原清貫が死亡、その他多数の朝廷要人が死傷した。目撃した醍醐天皇は体調不良になり、三ヵ月後にみまかられた。朝廷は恐れおののき、道真の罪を赦し息子たちを流罪先から京都に戻した。
そして雷神と結び付けられた道真の怨霊を、火雷天神が祭られていた京都の北野に北野天満宮を建立して鎮めようとした。こうして道真を「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになった。うーん、なるほど。
職場で左遷されている方、天神様が守ってくださると信じて、泣き寝入りせず戦いませんか。

西表島 ピナイサーラ川